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勝海舟から学ぶ「世の中に無神経ほど強いものはない」道後太郎2018-05-28 12:00:15



みなさん、勝海舟という人をご存知ですか。

幕末の登場人物として広く名を知られている英雄の一人ですね。貧乏御家人の息子にすぎなかった彼は剣と禅で体と精神を鍛え、幕藩体制崩壊の中、攘夷と開国派の両方を説得して、江戸城を無血開城に導きました。当時は藩同士の権力争いが激化していた中、「藩ではなく、日本国という枠組みでものを考えよう」と、あの坂本竜馬や西郷隆盛などの豪傑をも開眼させて、最後には軍事総裁にまで登りつめた人物です。


「どんなに厄介なことに出会っても臆病ではいけない。さあなんでも来い。自分の身体を捩れるものならねじってみろ。そういう気構えで挑戦すれば、難事であればあるほど面白味が増していき、どんなことでも造作なく解決するものなのだ」


激動の時代を切り開いた、勝海舟の人生訓を見てみましょう。




■ 行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない





勝は徳川幕府と明治政府の両方の高官の職に就いたので、二君に仕えた幕臣として、「裏切り者」と呼ばれました。あの福沢諭吉から、「武士としての誇りを地に落とした無責任男」と罵られたほどです。しかし彼はそんな批判に対して「言いたい奴には言わせておけばいい」と。なぜなら、自らの行いに揺るぎない自信があったからです。

「幕府、政府という枠を超えて、日本国としてどうすべきかを考えないと、この難局を乗り切れない」と確信していたのです。

その信念に基づき、明治政府の下で海軍卿という要職に就いてからも、慶喜公やかつての幕臣達の世話を尽くし、伯爵の地位を得た時も、「時勢の代わりというものは妙なもので、人物の値打ちががらりと違ってくるよ。人の評価は上がったり下がったりする。その評価も10年続かないよ」と冷静に社会の流れを分析していたのです。




■ 時代の空気と無縁に生きるな





また勝は、上司に反対されながらも日本では朱子学が全盛の時代にオランダ学(蘭学)を学んだおかげで、国防や海軍の専門家になりました。朱子学は多くの者が知っていても、蘭学の知識を持っている者が他にいなかったのです。しかしこれが、世界では最先端とされる重要な学問でした。
上司の評価など気にせず国にとって必要と思ったオランダ学を学び、大砲や銃の設計などに発展させたおかげで、誰に遠慮も無くなんでも言えたのですね。

「世の中に無神経ほど強いものはない。自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ」と後に述べています。




■ 積極的な自然体で生きる。





一見合理的に見える勝ですが、実は人間関係を大切にする人物でもありました。
「人間関係は魚の養殖と同じだ」と、長い目で、あらゆる方面に人のつながりを保ち、無駄に見えても餌をやり続ける(関係に腐心する)ことの重要性を説いています。利害関係だけでなく、信頼と誠実に基づいたネットワークで、諸国にたくさんの知己を持ちました。

「困った時にだけ人を訪ねるな。こんにちわは言うが、さよならを言わないのはだめだ」と、普段から、利害が絡まない長い付き合いを尊重していたのです。それらの縁が、きっと何度も彼を助けたことでしょう。




■ 損な役目を有利に活用せよ。





勝は長崎伝習所の学習が終わったあとも、オランダ教官の調整役として残留を命じられます。その残留により、長崎に入港する外国船の幹部や、薩摩藩主の島津大名などに名前を覚えられ、評価を高めていきました。「時間があったら、市中を散歩して、どんなことでも見て覚えておけ。いつかは必ず用に立つ。それが、兵学にも政治家にも大切なことだ」というオランダ教官から教えを守り、「世間は生きている。理屈は死んでいる」と、常に実践を重視して、理屈だけの評論家を嫌いました。


「俺の見たところでは、今の若者は、ただ一つの学問を修めて、多少知恵がつけば、それで満足してしまって、さらに進んで世間の風霜に打たれ、人生の酸味を舐めようというほどの勇気を持っているものは少ないようだ。こんな人間では、とても10年後の難局に当たって、裁きをつけるだけのことはできまい。俺はこんなことを思うと心配ではいられない」


すでにこの頃から、今にも通じるような日本の将来を心配していたのですね。










人生の半分を江戸時代に、残り半分を明治に生きた勝の残した言葉の数々や生き方は、「政治も文化も価値も変化する中で必要なのは、自信と勇気を持って、柔軟に前向きに対応することだ」と示しています。
亡くなるときにトイレで倒れ、生姜湯が間に合わないのでブランデーを飲んで脳溢血により息を引き取った時の最期の言葉は「コレデオシマイ」だったそうです。最後まで、悔しいほどに粋な人物ではないでしょうか。